
もちもちおもちのおもち君です。
今日はさっき読み終えた貫井徳郎さんの「慟哭」のネタバレあり考察をするよ。

どうこくってどういう意味?

慟哭は声を上げて激しく嘆いて泣くって意味だよ。

お腹がすいたよおおおおびええええ

小説はもっとシリアスで心に刺さるんだけどなあ。
小説「慟哭」のネタバレ徹底解説
この記事は小説「慟哭」のネタバレ要素を多く含みますのでまだ本を読んだことがない人は注意してください。
あらすじと背景
本作は2つの物語が交互に書かれている。
奇数章では警察のキャリア組として登場する佐伯のお話。
捜査一課長の佐伯は連続幼女誘拐事件の捜査を任されるが目撃情報も少なく操作は難航する。
キャリアとノンキャリアの確執、佐伯を取り巻く権力と重圧、警察内での不協和音が漂う中、佐伯の私生活をめぐってマスコミが動く。
偶数章では松本という男が新興宗教にハマり、最終的に黒魔術を使って失った自分の娘を生き返らせようとするお話。
その儀式の依代として娘と同じディジタルルートが4の女の子を誘拐していく。
佐伯と松本に関する伏線
あらすじだけでも気づく人は多いと思うんだけど、どっちの話でも女の子が誘拐されてるんだよね。
そして松本は黒魔術を使って失った娘を生き返らせようとしている。
このことからまず読者は、警察が追っている犯人は松本なんじゃないかって思うんだよね。
それが読者が一番気づきやすいところなんだ。
ここからはネタバレに大きく近づく伏線を書いていくよ。
奇数章では詳しい日時が書いていない
奇数の章、つまり松本の話では何月何日何曜日は書いてあるんだけど、年が全く書いていない。
偶数章、佐伯の話では正確に日時が記載されているのにだ。
ここに気づいたら慟哭の一番大きなトリックに気づいたも同然。
奇数章で何年の何月何日と書けない理由があるからなんだ。
松本に関する個人的な情報が少ない
地の文(会話文ではないところ)で、佐伯は佐伯と表記されているのに、松本は「彼」と表記されている。
何故松本は松本と書かれないのか。
何故松本は何者かを伏せられているのか。
佐伯は物語の最後で娘を失う
連続幼女誘拐事件の4人目の被害者となったのが佐伯の娘。
物語のタイトルになっている「慟哭」は娘の遺体を見たときの佐伯の心情が描かれている部分のことなんだけど、娘を失ったという点で佐伯と松本は一致している。
佐伯にとっての娘
佐伯は一見、情が薄そうで警察内でも冷酷なイメージを持たれている。
しかも浮気をしているし、娘からは嫌われている。
そんな佐伯だけど、連続幼女誘拐事件の捜査を進めていくうちに、本当は娘のことが大事で仕方ない、ということに本人も気づき始めるんだ。
部下の丘本が、もし被害者が自分の娘だったら、という話を佐伯にするんだけど、その時、
「自分の娘だったら気が狂うだろうな」
という返事をするんだ。
この場面の他にも、もし娘を失ったらっていう仮定の話をすると、佐伯は「気が狂う」と思うんだ。
気が狂う、と言えば、松本のことを想像させる。
松本は娘を失ったショックから新興宗教にのめりこみ、さらには怪しい儀式にも参加し、どんどんとおかしくなっていく。
そして黒魔術で娘を復活させようとする。それも依代として女の子を誘拐し犠牲にしてでも。
慟哭は交互視点を用いた叙述トリック

読者はまず、佐伯が追っている犯人は松本なんだと思い始める。
次に複数の伏線が点在していて、読者はかなり早い段階で佐伯=松本っていうことに気づき始めるんだ。
でもそれだけだと納得できないことがたくさんある。
犯行があった時には佐伯は警察の仕事をしているし、新興宗教についても佐伯は知識がない。
ではどういうことか。
ここでさっき書いた伏線の一番最初、松本の話では正確な日時が書かれていないっていうのを思い出してほしい。
書かれていないということは、書いたらトリックが成り立たなくなるってことなんだ。
読者は2つの話を交互に読んでいくうちに、同じ時間軸の話なんだと勝手に思い込んじゃうんだ。
それが叙述トリック。
つまりこの2つの話は同じ時間軸の話じゃない。
そう考えると答えは1つ。
佐伯の話は、松本の話より前に起きていることなんだ。
時系列で言うと、偶数章だけを読んだあとが奇数章。
エリート警察だった佐伯は連続幼女誘拐事件で娘を失ったことで心を病んでしまう。
そんな時、新興宗教にハマってしまい、娘を取り戻したいという気持ちから黒魔術で復活の儀式をする。
これが「慟哭」の本当の流れなんだ。
連続幼女誘拐事件の被害者は全部で7人
伏線をまとめて考えればそこまで難しい叙述トリックじゃないのに、読者がまんまと騙される理由は交互視点での話の進め方にある。
例えば松本が怪しい儀式の存在を知ったあたりで、章が切り替わり、佐伯が新興宗教の記事に興味を持ち、そこで宗教は営利団体だから人さらいをすることはないと記事を書いた知り合いに言われるが、新興宗教は数が多いから中には変わったところもあるかもしれないと仄めかされる。
他にも松本の章で誘拐事件の模倣犯やいたずらで手紙が届いているとニュースでやっているあたりで、佐伯側でも犯人からと思われる手紙が届いたり。
松本がターゲットを捜査一課長の娘にしようと決めたあたりで、佐伯の娘が行方不明になったり。
とにかく章が切り替わっても同じ世界で起こっていることのように感じさせてくるのがうまいなあと思ったんだ。
そして極めつけは、被害者の女の子について。
佐伯の章では被害者は全てフルネームで出ているのに対し、松本側ではディジタルルートが4の女の子、というだけで名前が一切出てこない。
被害者は最初から順に、香川雪穂、斎藤奈緒美、多田粧子、最後に佐伯の娘・佐伯恵理子の4人だと思い込んで、松本が誘拐した女の子もこのうちの誰かだと読者は誘導されてるんだ。
実際は松本が誘拐したのは勿論この4人ではなく、最後まで名前が一切出てこない3人の女の子だ。
小説「慟哭」のレビューで多かった意外な意見
僕ね、本を読み終わったらネットで他の人のレビューを見るのが好きなんだけど、「慟哭」もみんなのレビュー見たのね。
まあ色んな意見があったよ。
「騙された―!すごいトリックだー!!」
っていう人もいたし、
「トリックはそんなに難しくなかったね(フン」
っていう人もいたし、とにかく色々書いてあったんだけど、あるレビューが意外と多かったんだよね。
それが「主人公(佐伯)に全然同情できない」っていうレビューだったんだ。
で、よくよく読んでいくと、
「浮気してるくせに子供のことが大事とかなんか違う」とか
「あんな性格の人がそんなに気が狂う?」とか
佐伯の性格とか実際の行動(浮気)に対する疑問やアンチがとっても多かったんだよね。
でも僕はそうは思わなかった。何故思わなかったかと言うと、僕は佐伯に似ている部分が少しあって佐伯の気持ちや行動、そして成れの果てまで想像するのがそんなに難しくはなかったんだ。
ここからは主人公佐伯という人物について深堀していくよ。
主人公佐伯の内面とその葛藤
「慟哭」はトリックが全ての本格ミステリーというよりは、人間の内側をリアルに描いた純文学よりのミステリーだと僕は思っている。
この本を本当に理解するには佐伯という人物について深堀せざるを得ないんだ。
佐伯の生い立ち

元法務大臣・押川英良の隠し子の佐伯は、母親一人で育てられた。
押川は立派な家を残してくれたがそれ以外は全く何もしてくれず、佐伯の母は働いて女手一つで佐伯を育ててきた。
しかし押川の跡取り息子が事故で亡くなると、成績優秀だった佐伯に目をつけ、何としてでも東大に入れと学費の援助をしてくるようになる。
押川はどうしても自分の血をひいた人間に側近になってほしかったようだ。
しかし佐伯はそれに反発する形で警察官を目指すようになった。
警察官になったあと友人から紹介された美絵と結婚するんだけど、美絵の父親は警察庁長官で、押川と懇意にしている人物だったんだ。
紹介してきた友人も押川の息がかかった人物で、政略結婚だったということを後から知ることになる。
自分たちを捨てた父・押川への恨みをつのらせながら、佐伯はきっと孤独だったんだと思う。
唯一の肉親だった母は佐伯が自立してからすぐ病気で亡くなっている。
自分の意志で選んだと思っていた妻も全てその憎き父親の策略。彼はきっと孤独だったし人間不信になっていたと思うんだよね。
そして佐伯は、憎しみと孤独を抱いたまま大人になってしまった。
きっと女手一つで育ててくれた母親にわがままや自分の本音を話すことはできなかったし、ずっといい子として生きてきたんじゃないだろうか。
彼はそうやって自分の弱ささえも自分の内側に閉じ込めてしまって、誰にも悟られまいと仮面をつけて生きてきた。
それが同じ警察内で彼が冷酷に見える理由だし、自分自身もそういう人間なんだと思い込んで本当の自分の心とは向き合わずに生きようとしていた。
妻への愛情をなくし更に孤独に

政略結婚だったと知り、佐伯は妻への愛情が冷めてしまった。
夫婦関係は冷め、妻は浮気をする。
そしてそれに激情し妻を殴ってしまった。
きっとそのことも佐伯にとっては予想外のことだったに違いないんだ。
感情に支配されるとろくなことはない、そしてやっぱり他人のことは信用できない。
佐伯の心の鍵は何重にもかけられたんだと思う。
心の拠り所としての伊津子
頭が良く、冷酷に見え、片親で、妻への愛情がない、政略結婚、この状況を見ると、僕は白い巨塔の財前五郎のことを思い出した。
佐伯も財前も他人からすれば感情なんてないんじゃないかと思われるような冷酷なところがあって、人を寄せ付けない。
それなのに2人とも愛人がいる。
強そうに見える2人だけど、実際は自分の弱い部分を封印しているだけで、本当に強いわけじゃないと思うんだよね。
そういう人には自分を理解してくれる人間が必要で、それが愛人という形になる。
勿論、浮気する人が全員そうというわけじゃあない。
ただこの2人にとってはそういう存在であって、そのことが心の弱さを表しているようにも感じたんだよね。
だからレビューにあった「浮気してるのに」っていう言葉に僕は違和感を覚えたんだ。
伊津子は佐伯に対して「あなたのことは何でもわかる」と発言し、実際に佐伯が本当は連続幼女誘拐事件に関わることで心を痛めているということを見抜いている。
本当の自分を受け入れるという試練

連続幼女誘拐事件を通して佐伯は娘への愛情を知らされることになる。
本当はとても大事なはずの娘の存在を、今までは見て見ぬふりをしてきた。
いや、それはもっと心の深くに置いてきたもので、自分でさえも気づくことがなかったんだ。
だけど自分と同じぐらいの年の少女が次々と被害に遭い、もし自分の子だったら?と考えるようになると、そこで娘の大切さや自分の中にある娘に対する愛情が呼び起こされるんだ。
部下の丘本の息子が受験に合格した時、佐伯は今まで絶対に人に言わなかったような感傷めいた言葉を投げかける。
そして伊津子にもそのことを見破られ、だんだんと自分に対しても嘘がつけなくなっていくんだ。
でもそれは佐伯にとっては苦しい試練だった。
人を愛すること、娘を大事に思うこと、そういう本当は自分の中にある感情と対峙した時、これまで冷酷を貫いてきた自分との間にギャップが生まれ、受け入れることが困難になる。
認めてしまえばきっと自分は不安定になってしまう。
佐伯はそういう気持ちを抱いて生きていけるほど強くないからだ。
娘が危機にさらされたかもしれないという時にまで、周りの目を気にして私情で行動できないと思うのは、本当の自分の気持ちを知るのも知られるのも怖いからなんだ。
本当の強さは自分の心を肯定できること
過酷な生い立ちや環境の中で育った佐伯は、人を信じることができず、愛さえも信じられなくなっていた。
人を信じれば裏切られる、愛は失った時に傷つく、だから佐伯は自分を守るために冷酷で無感情な人間になろうとした。
それは人を欺くだけにはとどまらず、やがて自分自身さえも騙すことになったんだ。
人間は、色んな感情を持っている。
そしてどの感情も自分が抱くものであって自分で受け止め生きていくしかない。
そうやって自分の心を肯定し一緒に生きていくことで人は強くなる。
佐伯にはそれができなかった。
そして娘は、亡骸となって佐伯の前に姿を見せることとなった。
そこで彼は、今まで自分がしてきたこと、自分を騙し続けてきたこと、そうしてしまった自分への後悔と娘を亡くした喪失感と絶望で心を病んでしまう。
もし自分の娘が殺されたら、おれはどうするだろうか。
気が狂うな。すかさず答えは浮かんだ。(中略)
気の狂った親が何をしでかすか、予想もつかないからだ。
たとえそれが自分であっても。「慟哭」/貫井徳郎 34章より
この伏線の通り、佐伯は気が狂い、奇数章の話へと繋がる。
松本と新興宗教の影響
ここからは娘を亡くし、警察を辞めたあとの佐伯(この先松本)の考察。
心を病んだ松本は自分が生きてる意味もわからず、ただ公園や町を彷徨うだけの生活をしていた。
最初の希望
まず最初に、この本に書かれている新興宗教は全て想像上のもので、実際の宗教団体とは全く関係ないということを前提に話を進めさせてもらうね。
僕も特定の新興宗教を肯定も否定もしないし、「慟哭」においての話だっていうことを理解していただきたいです。

胸に穴があいている。松本は自分の心をそう表現していた。
目に映る全てが疎ましくて、何に対しても苛立ちを覚えていた。
どうして自分はこんなに苦しいんだ、どうしてこの胸の穴はあいているんだ。
誰でもいいから助けてほしい・・・そんな松本に、
「あなたの幸せを祈らせてください」
と少女から声をかえられる。
少女の祈りが終わると松本は不思議な気分になり、やけに幸せそうな少女の笑みが頭から離れなかった。
この出会いが後に新興宗教にハマることになるきっかけになるんだけど、この時の松本には救いの天使が舞い降りてきたような気分だったんだと思うんだ。
こんな自分が幸せになることなんてできるんだろうか、そんな問いがあったのかもしれない。
自分の頭で考えるのをやめること
少女との出会いがあってから色々あって本で新興宗教について調べることにした松本は、ある宗教が気になり始める。
そしてその宗教活動が行われているビルへ行くと、そこであの少女(北村)と再会することになる。
それを松本は、奇跡だ、とか天啓だって思うんだよね。
たしかに偶然再会したらそういう風に思うかもしれないけど、そこはかなり大きな宗教団体だったし、そこで宗教に所属していそうな北村と再会するのってそんなに珍しいことでもない気がするんだよね。
人間ってどうでもいい偶然は見過ごすのに、自分が気にしていることの偶然だけはすごいことのように感じるんだよね。それを奇跡だとか天啓だとか神の導きって思ったりする。
その団体で活動することにした松本は、宗教内では変わり者だって思われてる志摩と出会う。
志摩はまず、松本に対して救いが見いだせますと言い、その後しばらくしてから、胸に穴があいてますね、と言うんだ。
これに対して松本は何故自分の心がわかるんだと驚くと共に、目に見えない力を信じ始めることになる。
でも実はこれ、別に心を読んでるわけじゃなくて、松本と会話をしていく中で志摩はこの人は心に闇を抱えてるってことを感じた時点で、救いとか心に穴があるってことを伝えてるんだよね。
そもそも目に見えないものを信じたくなる時っていうのは心が弱ってる時が多いんだよね。(勿論全てがそういう人ではないけれど)
救いが見いだせるとか、胸に穴があいてるってすごく漠然とした表現だし、結構誰にでも当てはまる言葉なんだ。それに外れてても志摩にとって損はないしね。何とでも後から誤魔化せる。
でも松本は自分の心を読まれた、志摩には何か特別な力があるんだって思うようになるんだ。
もう自分ではどうすることもできない胸の穴を、ここにいれば埋めてくれるかもしれない。
そんな期待をどんどんと抱いていくようになる。
冷静に考えれば今僕が書いたようなことだってわかるはずなのに、もうこの時点で松本は自分の頭で冷静に考えるということをしなくなってきているんだ。
胸の穴を埋めてくれる存在

修行すれば階級が上がる。階級が上がれば導師(教団のトップ)と会えるようになる。
しかし志摩は導師に会うことができるようになる階級(アデプトゥス・メジャー)でない松本に、特別に導師に会う機会を与えると言い出す。
実は志摩は、お金を持っていそうな信者の身辺調査をしてその人のことを秘密裏に調べ上げている。
志摩は松本が元警察で娘を亡くしていると知り、金があると判断。
特別に導師に会わせると言い、松本を導師の元へ。
そして導師は娘を亡くしているということを言い当てる、という茶番をするんだ。
そんなことを知らない松本は導師を神のような存在だと認識し、導師に財施をしなさいと言われるがままにどんどんと教団に金を寄付し、階級を上げていく。
この教団は最初はボランティアや修行をしていれば階級が上がるんだけど、途中からは財施という名の寄付をしなければ階級が上がらなくなる。
当然、教団のことを信じている金を持っている者は金をつぎ込んで階級を上げていくことで徳を積んでると勘違いをするんだ。
中には階級を上げることが最終目標になっている人間もいる。
それが良い悪いは個人の価値観の問題だけど、松本はただ胸の穴を埋めてほしいがために言いなりになってしまう。
ここでもやっぱり、松本はもう自分の頭で物事を客観的に見ることができない状態に陥っているし、洗脳されてると言ってもいい。
松本が心を病んでからのここまでの流れが、本当に自然の流れのように書かれているところがこの小説のすごいところだと僕は思う。
人間の心の変化が緻密に描かれているし、読んでいて、こうはならんだろーとは思わなかった。
これは僕自身が心を病んでいたことがあるから余計にそう感じるのかもしれない。
何を犠牲にしてでも娘を取り戻すと決める

アデプトゥス・メジャーになった松本は秘儀を見ることを許可される。
最初は導師が行う秘儀を見せられ、後日、今度は志摩が行う儀式に参加するのだが、そこで行われていたのは黒魔術だった。
志摩はその黒魔術のことを人の願いを叶えるための儀式だと言う。
そこで松本は自分だけの儀式をすれば、娘を復活させるという願いも叶うのではないかと思い、志摩に人を生き返らせることもできるのかと問う。
志摩は多額の財施を条件に松本に神の意志に逆らう禁断の術を教える。
娘の魂を依代である人形に宿らせる、という説明を受けた松本は、人形ではなく娘と同じ歳の生きた少女を依代にすることで完全な復活を成し遂げることができると推測する。
そして娘と同じディジタルルートが4の女の子を依代にすることでより完全な復活を目指すことになる。
「慟哭」に出てくるディジタルルートっていうのは数秘術のことで、名前をアルファベットで書いてアルファベットを数字に置き換えてその数字を足して出てくる数字で人が元々もっている運命や性質を当てるという占いのようなものなんだ。
人は何を信じるのか

松本は教わった黒魔術で娘を復活させるためにディジタルルート4の女の子を誘拐し儀式をする。
勿論儀式は失敗する。
でも松本は儀式が失敗したのは依代に問題があったと考えやめようとしない。
そして最終的に現在の捜査一課長の娘に目をつける。
偶然にも年齢もディジタルルートも娘と一致したんだ。
自らが捜査一課長だった時に娘を亡くし、今度は自分が今の捜査一課長の娘を狙う。
これについても松本は運命だと勘違いし、更には自分の苦しみを他人にも味わわせたいという歪んだ欲望を持つことになるんだ。
そして松本はその少女を誘拐しようとする寸前、丘本に捕まる。
丘本は単独捜査を願い出て松本をずっと追っていたんだ。
「もう、おやめなさい。佐伯さん」
「慟哭」/貫井徳郎 67章より
この丘本のセリフで佐伯=松本というネタバレがされる。
そこから丘本の取り調べがあり、ラストを迎える。
その取り調べをする中で丘本は、何故そういうものを信じたのかを松本に問う。その返答が「慟哭」の核心的なところをついていると僕は思った。
人は自分が信じたいことだけを信じるのです。
「慟哭」/貫井徳郎 67章より
このセリフで松本の心情の変化が全て説明がつくなあと思ったんだ。
何となく気になる少女、自分が選んだ教団にその少女がいた、そこで自分の心を見透かしている志摩に出会う、志摩や導師には理屈では説明できない特別な力がある、その特別な力は娘を蘇らせることもできる。
松本は冷静に客観的に考えればありえないことを信じてきた。それは松本が信じたい、信じて救われたいという気持ちがそうさせたんだ。
松本だけじゃなく、それは人間全てに共通する心理だと思う。
補足になるけど、佐伯が松本に名前が変わっているのは離婚したからなんだ。
彼は隠し子で政略結婚させられたということを前に書いたけど、婿養子に入った彼の旧姓が松本なんだ。
彼の実の父親は元法務大臣の押川だけど、彼の母親とは結婚していない。
つまり松本は母親の姓なんだ。
隠し子と政略結婚すら伏線になってたんだよね、
「慟哭」の最後の一行が救われない理由
物語の一番最後、取り調べをする丘本に松本は、自分の娘を殺した犯人は捕まったのかと問う。
そしてその答えが最後の一行なんだ。
「いえ・・・・・・まだです」
「慟哭」/貫井徳郎 69章より
松本はどうやっても救われないまま物語は幕を閉じるんだ。
これが最後の一行が救われない理由だよ。
ここで犯人が捕まっていたらまだ救われたかもしれないけど、それすら叶わなかったんだ。
「慟哭」を読んだ人が後味が悪いとか、鬱小説だった、って言う理由がこれなんだ。
まとめ
小説「慟哭」は交互視点を利用した叙述トリックと、フーダニットを混合させた本格ミステリーなんだけど、人物の心理描写や行動がとってもリアルでミステリーだけど純文学を読んでいるような感覚にもなるんだ。
「慟哭」は著者の貫井徳郎さんのデビュー作で、こんな小説を最初から書くなんて本当にすごいし、これからが期待される作家として注目されていたよ。
以前紹介された本の中に貫井徳郎さんの他の小説も候補にあったから是非違うのも読んでみたいと思う。