ゴキブリは素手で捕まえられるのにカメムシと蜂が怖くて仕方ないおもち君です。
虫やだ!びぇぇぇぇぇぇん!
今回紹介するのはフランツ・カフカの名作「変身」だよ。
短編から中編ぐらいのかなり短い作品で難しい用語とかはほとんどなくて比較的読みやすい作品。
終盤から結末までモヤモヤ感が続き、なんとも後味の悪い作品で、この話は一体何が言いたかったのか、何故そういう結末になったのか、と解釈に苦しむ人が多いみたいなんだ。
そこで今回は物語の最初から順に僕なりの考察と解釈を書いていくよ。
ネタバレが嫌な人はブラウザバックをお願いします。
「変身」について
1915年の月刊誌『ディ・ヴァイセン・ブレッター』10月号に掲載され、同年12月にクルト・ヴォルフ社から「最後の審判叢書」の一冊として刊行された。
実存主義文学の1つとされ知られ、不条理文学の1つとしても知られている。
じちゅぞん?ふじょおり?難しくてわかんないよぅ。
実存主義は説明が難しいから今回は省略するね。不条理っていうのはわかりやすく言うと、普通なら(常識では)ありえない!ってことだよ。
・・・・・餅が喋る、とか??
・・・。
「変身」の考察&解釈
グレーゴルが朝目を覚ますと自分が虫になっていることに気づく。
虫になった体はなかなか思うように動かず時間だけが過ぎ去っていく中、仕事に対する不満に思いを募らせるとことから物語は始まる。
おかしな家族
冒頭のこのシーンはとても面白い。
虫になったら普通なら仕事のことなど考えないで、自分の体のことについて考えるよね。
虫になるってことがそんなに珍しくもないようにただただ仕事の不満や、遅刻してしまったことの弁解を考えているんだ。
彼がどうしてそんなに仕事にこだわるのかというと、グレーゴルの家は彼一人で生計を立てていて、さらに両親は商売が失敗したことで借金を背負っているからだ。
この借金を返すためにも彼は仕事を辞めるわけにはいかないんだ。
話を読みすすめるとわかることだけど、多額の借金があるにも関わらずグレーゴル一家はわりと裕福そうな暮らしをしている。
お手伝いさんが何人かいたり、食事もまともにとっている。それに加えて、借金をしている当の本人である両親は両方無職。
この状況、何かおかしくない?
これに対してグレーゴルは家族に対して何も文句は言わないし、溺愛する妹にもバイオリンが学べる音楽学校に進学させるための計画を立てているんだ。
代理ミュンヒハウゼン症候群の妹
虫になったグレーゴルに対して家族は気持ち悪がり部屋に追いやってしまう。
でも妹だけは食事を与えに来て部屋の掃除までする。
それでも両親は気味悪がって、ある出来事がきっかけで父親は怒り狂ってグレーゴルにりんごを投げつける。
そのりんごがグレーゴルの体にめり込んでしまい瀕死の傷を負うことになる。
最初妹の行動は兄を慕う気持ちからきているものだろうと思ったんだけど、それもどうやら違うようだ。
妹は確かに食事を与えにくるし掃除もするんだけどどこか手抜きだし、グレーゴルと会話しようとしたりするわけでもない。
早く人間に戻ってほしいと願うわけでもないし、虫であることを肯定するかのように部屋の家具を運び出して、グレーゴルがたくさん這い回れるようにしようとする。
極めつけは、母親が勝手にグレーゴルの部屋を掃除しようとすることに対して腹を立てるんだ。
これは世話をしていることで同情を買おうとする代理ミュンヒハウゼン症候群だ。
ミュンヒハウゼン症候群は怪我や病気を捏造して周りの気をひこうとするんだけど、代理ミュンヒハウゼン症候群は自分ではなく他者(多くは子供や高齢者や障害者など)を傷つけその世話をすることで同情を買おうとする。
こんなに献身的に世話をして偉いでしょう?って具合に、周りの同情を買うことで優越感を得ようとするんだ。
この兄弟、どちらも愛情不足の中育ったんじゃ?と感じる。
グレーゴルはお金という手段で、妹は兄の世話という形で親や周りの大人の関心をひこうとしているんじゃないかな。
グレーゴルのその行き過ぎた親に対する甘やかしこそがこの家をおかしくしている原因なのかもしれない。
虫になるとはどういうことなのか
グレーゴルにめり込んだりんごは彼を苦しめた。
その頃から家族は働き始め切り詰めた生活をするようになる。
家の空いている部屋を紳士に貸し出し収入を得ようともしていた。
しかし紳士達は醜い虫であるグレーゴルを見てしまい怒って出て行ってしまう。
妹はもうグレーゴルを見捨てるべきだと言い、父親もそれに同意する。
グレーゴルは自ら部屋に戻りそのまま息絶える。
この家族の描写が恐らく多くの読者を不快に陥れた部分だ。
家族は三人とも仕事に就いていて、それも将来に希望を持てると感じている。
三人は休暇を取り出かけ、将来が明るいってこととか娘の婿探しもしないとなあと明るい話題で持ち切りなんだ。
そこでグレーゴルのことには一切触れず、災難が去ったと言わんばかりだ。
たしかに、真面目に働いて家族を養ってきた主人公が突然虫になって、しかも家族から見放され、主人公が死んだあとは家族が幸せそう、というのは酷い話のようにも思える。
ここで物語の始まりである、グレーゴルが虫になるということを考えていきたい。
何故彼は虫になってしまったんだろう?
仕事には不満がある、でも働かなければならない(彼の場合は自分で自分を追い詰めている節がある)、そんな人間が突然ベッドから出られなくなる。これは鬱病にとっても似ている。
鬱病になって働けなくなった息子、心配している家族(体の心配よりこれからの生活の心配)、一向に状態が良くならないグレーゴル、疲弊する家族。
虫になったのにも関わらず、家族は嫌がって遠ざけることしかしない。
もしかしたらただ怠けているだけのように見えたのかもしれない。
唯一世話をしてくれている妹は代理ミュンヒハウゼン症候群で、最終的には手に負えないと見放そうと提言する。
そしてグレーゴルが死んだあとは開放されたかのように家族が生きいきとしだす。
こう考えると「変身」は意外と身近にある話なんじゃないかな。
勿論、普通は鬱病になったからって見放さないと思うよ?だけど、鬱病に限らず精神疾患って本人も苦しいのは勿論だけど、介護する家族が疲弊していって共倒れになることも少なくないんだ。
それを作品として極端に書いているのが「変身」なんじゃないかなって思うんだ。
ちなみに僕の学生時代も似たようなことがあった。
母親に裏切られ傷心している父親は勢いで仕事を辞め、愚痴や泣き言をすべて僕にぶつけるようになった。その時父親から「お前はしっかりしてるから(弱い父親である自分の話を)聞いてくれ」という情けないことを言われていた。
家計のために僕は働くことになったし、妹の進学のために貯金もしようとしていた。でもそんな生活に疲れてきた僕はどんどん精神を病んでしまい鬱病に近い状態に陥ってしまったんだ。
それでも父親は働こうとしなかったし、ギャンブルもやめなかった。唯一、妹が僕を見放すということはなかったのが救いだったんだけどね。
この時僕は、誰かに働けと言われたわけでも強要されたわけでもなかった。ただそうしなければいけないような気がしていたんだ。
恐らくグレーゴルもそうなんじゃないかと思う。結局それが親を甘やかすことになり、自分だけがどんどん疲弊していくんだ。
もう一つ、カフカは「変身」の表紙について虫の姿は描かないでくれとわざわざ注文していたらしい。これは本当に虫になったということではなく、何かの比喩として虫を使っているからなんじゃないかな。
まとめ
フランツ・カフカの「変身」は突然体が虫になるという不条理に加え、虫になったあと、生きている意味を見い出せなくなっていく絶望を描く話だ。
そして家族の在り方や自分が家族に与える影響も考えさせられる内容になっているよ。
読後の憤りやモヤモヤした気持ちは鬱小説と呼ぶにふさわしい。
この記事を読んでまた「変身」を読み返して、ここには書いていない新たな発見をしてほしいな。
コメント