おもちちゃん、津田梅子って知ってる?
はいはいはい!新しい五千円の人!!
じゃあ何をした人か知ってる?
全然知らない!!
じゃあ今日は津田梅子が何をした人かわかりやすくおもちちゃんに教えるね!
難しい話は苦手だから簡単におなしゃす・・・
忙しい人はこれで津田梅子がわかる!↓
・6歳で一人アメリカ留学をした
・日本の女性教育の発展に貢献した
・生涯母語は英語
・英語だけでなく生物学やピアノも優秀だった
・津田塾大学の創設者
津田梅子は何した人?を簡単に説明
時は明治時代。
女性は男性に仕える存在で一般的な教養を学ぶことはあっても学問を学ぶ女性はいなかった時代のお話。
6歳でアメリカ留学を決意する
梅子の父、仙は佐倉藩(現在の千葉県)の武士だった。
佐倉藩は西洋文学が盛んで、仙は国の偉い人が外国に行く時に付き添う通訳の仕事をしていた。
通訳としてアメリカに行く時、福沢諭吉も一緒にいたんだ。
また福沢諭吉出てきたー!まじですごいじゃん!
※おもちちゃんが「また」と言ってるのはこないだ北里柴三郎のことを教えた時にも福沢諭吉が登場したからである。
アメリカに行った仙が目の当たりにしたのは、生き生きとした女性の姿。
日本ではただ男性に仕えるだけのこじんまりと静かな女性が、アメリカでは男性と同じように振舞っている。
仙はこれからの時代は教養のある強い女性(母親)が日本を作っていくに違いない、と感じるんだ。
仙と同じように女性の立場の重要さをアメリカで実感した黒田清隆っていう人は、政府が女子留学生をつのって10年間アメリカに単身で行かせるというプロジェクトを立ち上げるんだ。
その1人に選ばれたのが津田梅子だ。
単身って、1人で10年間も親と離れ離れで暮らすの!?
そうなんだ。仙は最初、仙の長女に声をかけたんだけど嫌がられて、次に梅子に声をかけたら行きたいって言ったんだって。その時梅子はまだ6歳だったんだ。
こうして梅子は岩倉具視の率いる岩倉使節団に同行する形でアメリカへ渡るんだ。
そのメンバーには、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、大久保利通と歴史に名を遺した有名人がたくさんいたんだ。
アメリカに着いた梅子はホストファミリーであるランマン夫妻のところに預けられた。
ランマン夫妻はお金持ちだったんだけど子どもがいなくて、梅子のことをわが子のように可愛がったんだって。
留学生は他にもいたんだけど、梅子と仲が良かった永井繁子と山川捨松はあとで登場するから覚えておいてね!
ランマン夫妻の元で暮らし始めて9ヵ月後、梅子は絵日記のようなものを全て英語で書くんだ。それを見たランマン夫妻はびっくり!
この子は将来とんでもなく優れた女性になる、と思うんだ。
梅子は英語だけでなく、数学や物理や天文学、それからピアノも勉強した。
帰国後、梅子は人前でピアノ演奏を何度もしたんだって
おぴぴ!(ピアノ)
梅子は国家プロジェクトでアメリカに来ている。帰国したらこの経験を日本に伝えなければ!という使命感を持っていたんだ。
ランマン夫妻はこのままアメリカにいてもいいんだよ、と言ってくれたけど梅子はそういう強い意志を持って日本に帰ることとなるんだ。
ちなみに、この留学中に梅子は仙の知人の紹介でモリス夫妻と出会うんだ。フィラデルフィア有数の大富豪で、ただのお金持ちってわけじゃなくて慈善活動も活発に行っていたんだ。
アメリカから日本へ帰国
梅子は当初の予定より1年延長して11年間、ランマン夫妻の元で生活。
そして日本に帰った梅子は
なんと!
日本語を完全に忘れていた!!
日本生まれのアメリカ育ち、My nama is 津田梅子爆誕。
家では父親の仙は英語ができたから話はできたんだけど、母親や姉妹とは全く話ができなかったから仙に通訳してもらいながら生活していたんだって。
困ったのは言葉だけじゃない。
生活のありとあらゆる面において梅子はアメリカの常識が身についていたから日本の常識がわからなくなっていたんだ。
土足で家に上がったり、とかね。
だから梅子は母国にいるはずなのに居心地の悪さを感じていて、ランマン夫妻に宛てた手紙の中でそのことを「移植された木」のようだって表現したんだ。
伊藤博文の助け舟
日本の未来のためにと立ち上げられた女子留学プロジェクトを終えて、梅子はランマン夫妻の好意を断って帰ってきたのだが、なんと日本では留学生が帰ってきてからのことは全く考えてなかった!!
どうやらプロジェクトは見切り発車、梅子は日本に帰って仕事に就くこともできずにいた。
自分が経験してきたことは何だったんだ・・・そんなモヤモヤした思いを抱いている時、たまたま伊藤博文と再会する機会がおとずれた。
たまたま伊藤博文と再会ってすごいパワーワードww
伊藤博文は仕事がない梅子に、自分の家で家庭教師をしてくれないか、と提案するんだ。
梅子は使用人としてではなくゲストとして伊藤邸に招かれ、英語やピアノを教えるかわりに日本の教養や作法を学ぶことができたんだ。
そして帰国から3年が経とうとしていた時、華族女子学校の教師として採用される。
華族女子学校は伊藤博文が中心になって創立した国立の学校なんだ。
そして学校の創立準備委員会には、昔一緒に留学した捨松も伊藤博文に招かれて参加していた。
華族女学校の教師として働く
いよいよ日本で英語を教えることができる!と張り切っていた梅子。
梅子はとにかく厳しい教師で、生徒がいい発音でないと、「ワンスモア!ワンスモア!(もう一度!)と机をバンバン叩きながら教えたそうだ。
翌年には教授となって、華族女子学校で3年間教鞭をとる。
後にかつて捨松がアメリカ留学していた時のホストファミリーの娘であるアリス・ベーコンも教師として招く。
この時代の女子の学校は一般教養など妻として生きていくのに必要なことを主に学ぶ場所で、英語はおまけ程度の感覚だったんだ。
そして女性は皆主体性がなく、教師が「どう思うか」や「どう考えているか」を訊いてもみんな黙ったままで、そんな生徒の様子にアリス・ベーコンは、
ヤルキナイヒトイレルガッコウ、ガッコウジャナイイイイイイイ
とぶち切れたらしい。
ベーコンが、ぶちぎれ・・・
耐えるんだ、おもちちゃん。ここで笑ってはいけない・・・
そんなアリス・ベーコンの薦めで梅子は再び海外留学をすることになるんだ。
しかし留学するにもお金が必要。最初の留学のように国がお金を出してくれるわけではない。
困った梅子は最初の留学の時に知り合ったモリス夫人に相談の手紙を送るんだ。
するとモリス夫人は親交のあったブリンマー大学のローズ学長に梅子を大学に入れてもらえないかと頼んでくれたんだ。しかも、授業料も免除、寄宿舎も無償提供という最高の条件で梅子は留学をすることができたんだ。
さらに華族女子学校の校長からは留学中も給料を払うと言ってもらえたんだ。
梅子さんすごーい!
それだけ梅子は優秀だったってことだよね。きっと梅子の情熱に周りの人間も動かされたんだろうなぁ。
ブリンマー大学へ行った梅子は学部長のケアリ・トマスと出会う。
ケアリ・トマスは女性教育の発展に尽力した人で、女性も男性と同じように学問ができる未来を目指していたんだ。
梅子は2回目の留学で何を学ぶかを悩んでいたんだけど、正直なところ生物学に興味があったんだ。
その頃父親の仙が農学者として名をはせていた影響もあったらしいよ。
けど、女性が科学を学んでもよいのか梅子には躊躇いがあったんだ。
それをケアリ・トマスに相談すると、「学問の前に性別は関係ない」と言われ生物学を学ぶことを決意するんだ。
そして梅子は生物学を学び、モーガン博士と共に「蛙の卵についての研究」をして共著として論文を発表。その論文は学術誌に掲載されたんだ。
梅子は欧米の学術雑誌に論文が掲載された初の日本人女性なんだ。
そんな優秀な梅子にモーガン博士もケアリ・トマスも、ここへ残って研究を続けなさいって言ってくれるんだけど、梅子はやはり日本の女性教育を変えたいという気持ちが強く日本に帰ると言う。
ケアリ・トマスは「学問ができる環境があるのに学問をしないなんて学問への冒涜だ!さっさと日本なりどこへなり帰れ!!」
とおこだったらしいよ。
世界で日本の女性教育についてスピーチ
日本に帰ってきた梅子は再び華族女子学校の教師として働き、また他の学校の講師や教授を兼任もしていたんだ。
数年後、アメリカで開催される万国婦人連合大会に参加するために私費で渡米。
日本の女子教育についてスピーチをして話題になるんだ。そのまま英国やパリを訪問。
なんとイギリスではナイチンゲールと会い、アメリカでヘレンケラーとも会うんだ。
梅子さん、想像の何百倍もしゅごい・・・
そして日本に帰ってきた梅子はある野望を抱く。
自分で学校を作ってやる!!
津田梅子、学校を作るってばよ
学校を設立するために梅子は協力者を募るために日本やアメリカを駆け巡った。
アメリカではフィラデルフィアのモリス夫人が「フィラデルフィア委員会」という梅子の学校を作るための組織を結成。
梅子の志に共鳴する人々から寄付金を募ったのだ。
そして「フィラデルフィア委員会」にはあの、ケアリ・トマスもいた。
梅子に「学問への冒涜だ!」って怒っていたあの人だね。
ケアリトマスさんすごくいい人だああうわあああん
アメリカに帰国していたアリス・ベーコンも日本に駆けつける。
一緒に留学した繁子と捨松も登場
昔の五千円札の顔、新渡戸稲造も参戦!
なんだかスマッシュブラザーズみたいだね!
あたいカービィがいい!!
多額の寄付金が集まり、梅子は年俸800円(現在だと1600万円ぐらい)の教師を辞めて学校設立願いを出し、ついに「女子英学塾」を設立することができたんだ。
開校時の生徒は10人。
学校はとにかく厳しい授業で当初は脱落者が相次いだが、8年後には生徒数なんと150人。
厳しいけどレベルが高いと評判になって生徒数はどんどん増えていったんだ。
そして学校のレベルの高さを認められて、これまでは教員資格を別でとらなきゃいけなかったんだけど、この学校を卒業した人には無条件で英語の教員免許が与えられることになった。
こうして女子英学塾は周りの人の支援でどんどん大きくなっていく。
梅子の意思を継ぐもの
梅子は52歳の時体調を崩して入院する。
退院したものの、ずっと体調がすぐれず入退院を繰り返すことになる。
それから12年後、梅子は脳出血のため死んでしまうんだ。
しかし梅子が死んでも梅子の意思を継ぐ者たちが女子大学の設立を目指していた。
郊外に移転し、募金活動も行った。その間には関東大震災があり一度校舎は全焼して塾の存続も危うくなったが、やはりそれでも諦めなかった。
数年の募金活動の末、梅子が死んでから4年後、学校の名前を「津田英学塾」に改め、太平洋戦争の戦禍を乗り越え「津田塾大学」となった。
「何かを始めることは易しいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい。」
津田梅子が残した名言は彼女自身の生きざまを表しているようだ。
津田梅子は何した人?どんな人?のまとめ
おもちちゃん、これで津田梅子のことはわかったかな??
うん!津田梅子はおぴぴの人!!
・・・まとめるとね、こうだよ
・6歳で一人アメリカ留学をした
・日本の女性教育の発展に貢献した
・生涯母語は英語
・英語だけでなく生物学やピアノも優秀だった
・津田塾大学の創設者
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