
もちもちおもちのおもち君だよ。今日は小説「殺戮にいたる病」の考察記事だよ。

なんか怖そうな本だね・・・

(おもちちゃんは読まないほうがいいかもなぁ・・・)
この記事を読む前に注意があるよ。「殺戮にいたる病」はサイコホラーとしての要素がとっても強く、グロテスクな場面が多いから、苦手な人は回れ右してね。
あとエロティックな要素もあるからそういうのが苦手な人も注意してね。
「殺戮にいたる病」について
「殺戮にいたる病」は我孫子 武丸(あびこ たけまる)さんのミステリー・サイコホラー小説。
X(旧Twitter)でよく見かけるなーと思っていたんだけど、出版されたのは1992年。
今から33年も前の小説だったんだよね!
それが2017年に新装版が発売されて再び人気に火がついた、というわけ。
あらすじ
『永遠の愛をつかみたいと男は願った――東京の繁華街で次々と猟奇的殺人を重ねるサイコ・キラーが出現した。犯人の名前は、蒲生稔! くり返される凌辱の果ての惨殺。冒頭から身も凍るラストシーンまで恐るべき殺人者の行動と魂の軌跡をたどり、とらえようのない時代の悪夢と闇を鮮烈無比に抉る衝撃のホラー』
この小説は3つのパートが人物別に分かれている。
1人目は蒲生稔の視点の話。人を本当に愛したことがない稔が(またこれからも愛することはできないと思っていた)ある日出会った女性に惹かれ、本能のままに女性を殺害し屍姦をし、女性の乳房をナイフで切り取り持ち帰るという猟奇殺人を繰り返していく話が書かれている。
2つ目は蒲生雅子の視点の話。あるきっかけから息子がテレビで報道されている連続殺人事件の犯人ではないかと疑いを持ちつつも信じたくない母親のことが書かれている。
3人目は樋口の視点の話。警察を退職し妻にも先立たれ生きる気力のなくなってしまった樋口。そんな樋口を心配し家に来て話相手になったり世話をしていた看護婦が連続殺人事件の被害者になってしまった。被害者の妹に頼まれ共同で犯人を捕まえることを決める。
この3人の話が入れ替わりながら物語は進んでいくんだ。
叙述トリックについて
「殺戮にいたる病」には叙述トリックが用いられている。ラストシーンでの蒲生雅子の台詞で読者は、え?どうゆうこと!?と一瞬意味がわからなくなる。
読者の思い込みを巧妙に誘い、ラストで種明しをする、というのが叙述トリック。一度この騙されたー!!感にハマってしまうと、なかなか抜け出せないし、叙述トリックがあるとわかっていて読むのも違う楽しみがあるんだ。
どこに伏線があったのか、どの場面、どの台詞で騙されたのか、小説を読み終えた後、答え合わせをしながら再読するのもまた叙述トリックを用いた作品の魅力でもある。
「殺戮にいたる病」ではどんな叙述トリックが使われているのか、簡単に説明すると、
読者は、蒲生雅子の息子が稔という名前で連続殺人事件の容疑者だと思い込む。
<読者の想像>
夫
妻・雅子→息子を犯人だと思っている
息子・稔→大学生・連続殺人の犯人
娘・愛
でも本当は蒲生雅子の夫が稔で、息子は犯人じゃないんだ。
そしてもう1つの読者の思い込みが、蒲生一家の家族構成だ。
読者は夫、妻の雅子、息子、娘の愛の4人で暮らしていると思い込んでいるけど、実はこの家族、本当は5人家族で、夫の母が一緒に暮らしているんだ。
<本当の家族構成と名前>
夫・稔→大学の助教授。連続殺人の犯人
妻・雅子→息子を犯人だと思っている
息子・信一→父親が犯人だと疑っている
娘・愛
母→稔の母
叙述トリックを見破るためのヒント
叙述トリックのネタ明かしをしたところで、どうやってこの叙述トリックが成功しているのか、小説を引用しながら解説するよ。
稔は、大学の食堂で彼女を二度目に見かけたとき、ためらわず彼女の向いの席を取った。
殺戮にいたる病/我孫子武丸 P23より
この何でもないような一文にも叙述トリックが潜んでいる。
この文章を読んだ時、読者のほとんどが、稔は大学生で、通っている大学の学食で見かけた女子生徒の前に座ったと思ってしまうんだよね。でも稔は大学生ではない。稔は大学の助教授なんだよね。
初めて女を殺した翌日、稔は大学を休んだ。(中略)
どこかへ出かけたものとばかり思っていた母がのっそりと入ってきた。
「稔さん。大学はどうしたの?」彼女は不服そうに言った。
「・・・・・ちょっと熱っぽいから。どうせ授業は一つしかなかったし。前期は皆勤した講義だしね、一回くらい休講しても構わないさ」
殺戮にいたる病/我孫子武丸 P70より
ここは結構攻めてきたなー!と思うポイント。
まずのっそりと入ってきた母。当然読者は学校を休んでいるのは雅子の息子だと思っているから母が入ってきて、大学はどうしたの?と聞くことは全然不自然じゃない。
気になるのは母が息子のことを「稔さん」と呼んでること。
自分の息子のことをさん付けで呼ぶのって今はほとんどないよね?よく金持ちの息子のことをさん付けで呼んだりするドラマとかはあったりするけど。そこに違和感を持ったかどうか。
先に書いたように、読者が抱いている稔=息子という思い込みがあるとこの違和感もたいしたことないように感じちゃうんだよね。
実際は夫のほうが稔なので、(ここでは年齢は明かされていないが)年老いた母親が息子のことをさん付けで呼ぶのはそんなに珍しいことではない。もし稔=夫ということに気づいていたとしたら、同じ家に母も住んでいるとわかる箇所なんだ。
こうして、隠したい母の存在を完全に書かないのではなく、ちらほら登場させているのがこの叙述トリックの上手いなーと思う部分なんだよね。
そしてこの引用文の最後、一回くらい休講しても構わないさ、と稔が言っているんだけど、ここも違和感ポイント。
休講するっていうのは大学側の都合(先生の都合)で講義を休むこと。つまり学生のほうが休講するとは言わないんだよね。ここもわざわざ休講と書かなくても、休んだと書けばいいのに敢えてヒントを置いていってるんだよね。
学生が休講したって言うのはおかしい・・・と思った人はここで叙述トリックを見破ったかもしれないね。それぐらい攻めてるポイントだと思うんだ。
彼がもともと両親と住んでいた一軒家も、五年前に義父が他界してからは夫の名義となっている。
殺戮にいたる病/我孫子武丸 P12より
最初のほうにページは戻るんだけど、雅子の章で、家は元々夫の両親もので、義父が他界し、名義が夫になっている、という一見どうでもいいような情報が書かれている。でも他界したのは義父としか書かれていないから、義母のほうはまだ一緒に暮らしてるんだよっていう示唆になってるんだよね。
この一文でじゃあ義母は一緒に住んでるんだなって思う人はほとんどいないんだよね、不思議と。
「まあ、オジンには無理かもね」
殺戮にいたる病/我孫子武丸 P78より
15か16歳くらいに見える少女から稔が言われた台詞の1つ。
オジンっていうのはおじさんってことだけど、大学生はおじさんじゃない。
でも15か16の少女からすれば20代の男をおじさんと言ってもおかしくはない。
そんな微妙なところをついているんだよね。
実際、稔は43歳だからおじさんと言われて当たり前なんだけど、15、6の少女からすれば大学生もおじさんに見えるか、と思わせる叙述トリックだ。
物語中の違和感に気づけるかどうか
読んでると何となく漂う違和感。その違和感こそが叙述トリックを見破るためのヒントなんだよね。
さっきは文章からわかる違和感を紹介したけど、この他にもたくさん違和感ポイントが散りばめられているんだ。
一番大きな違和感は、もうこれは違和感というより、おかしいなーと誰もが思う部分なんだけど(それでも読者は真相に気づけない)、夫・稔は殺人のあと、遺体から乳房や子宮を切り取って、ビニール袋に入れて持ち帰り、庭に埋めて保管しているんだ。
雅子は息子のほうを犯人だと思っていて、息子の部屋に勝手に入ってゴミ箱を漁ったりしてるんだけど、その時に中に血がついたビニール袋を見つけてしまうんだよね。
おかしいよね?庭に埋めてあるはずのビニール袋が部屋のゴミ箱から見つかるなんて。
勿論、読者が稔=息子だと思い込んでいるとしても、庭に埋めたビニール袋がゴミ箱にあるはずがないし、犯人ならゴミ箱にそんなものを入れるはずがないんだ。
これは息子が父親を犯人だと気づいていて、庭を掘り起こして見つけたビニール袋なんだよね。
ここまでまんまと騙されている読者は、息子の部屋に血が入ったビニール袋があったのを母親が発見する、という展開に踊らされて肝心なところに考えが及ばないんだ。
あとはこのことに比べれば些細な違和感かもしれない。
例えば稔はタクシーを平気で使うし、狙った女性にご飯をおごるために6000円のディナーを頼んでいる。財布にはだいたい5万円前後入っていて、車もある。
大学生にしてはちょっとお金ありすぎじゃない?っていうのが正直な感想だと思うけど、まあそういう大学生もいるよね、ぐらいの違和感。
こういう何とも絶妙な、どっちともとれる、みたいな違和感を作り出すのがうまいなーと思うんだよね。
これらの違和感をさっき書いた、叙述トリックを見破るためのヒントと一緒に考え突き詰めていくと、ラストシーンにたどり着く前に、稔=夫という真実が見えてくるかもしれない。
稔が惹かれた女性の共通点
さてさて、稔は最初、人を本気で愛したことはないし、これまで抱いた女性はいてもピンときてない様子だったのに、どうして犯罪を起こすと同時に本物の愛を手に入れたと思うようになったのだろう。
小説の中盤から後半にかけて、稔は小さい頃、母親に恋愛感情を抱いていたことを思い出していく。
そして物語の終盤、稔の章で、
何故俺はあの女達を選んだのだ?何故?
(中略)
白い肌、豊かな胸と腰、端正な顔立ち──限りなく、限りなく本当の美に近かった。
殺戮にいたる病/我孫子武丸 P332より
と、自分が殺めてきた女性たちのことを思い出しながら、何故自分がその人たちを選んだのかを考えている。
稔が選んだ女性たちは、全員、かつて愛してしまった母親に似ている人たちだったんだ。
似ていると言ってもそっくり、というわけではなく、全体の雰囲気や身体の部分的なところが似ているといった感じだろうか。
最初の被害者は母親と同じ赤いマニュキュアをしていたという共通点もある。
しかしここで新たな疑問が浮かび上がる。
かつて好きだった人と似た人を好きになるというのはよくあることだけど、どうして殺す必要があったのか。そして何故、殺したあとで犯す必要があったのか。
殺さなくても生きたまま付き合っていくということは考えられないのか。
稔が本当に求めていた女性
稔が小さい頃、父親は稔が母親に下心を抱いていることに気づき、ある日稔を殴る。
その時に「父さんなんて死んじゃえ!」と言うんだけど、この後稔は母親に殴られることになる。
稔は、母親は自分のことを一番大事にしていて、父親のことは憎んでいると思っていたんだ。
母が一番大事にしているのは父ではなく自分だと、ずっと思っていた。母もまた、父を憎んでいるのだとずっと信じていた。
(中略)
愛されてなどいなかったのだ。それ以来、不思議なことに母の裸を見ても何も感じなくなった。何も。
殺戮にいたる病/我孫子武丸 P220より
稔は母親に性的な意味ではなくとも愛されていると思っていた。しかし母親が愛していたのは父親であり、父親のことはすごく憎い存在だった。
稔にとってこのことは大きなショックで、母に対する理想像がこの場面で壊滅してしまったと言ってもいい。
愛していたはずの人に裏切られた気持ちだったかもしれない。
この出来事のおそらく直前にこんなシーンがある。
母は両手をお腹のところで組んでまっすぐ寝ていて、稔は最近テレビで見たエジプトのお棺を思い出した。エジプトでは死体をいつまでもいつまでも腐らないようにすることができたというのを、稔はその時に知った。あの、人の形をしたお棺の中には、生きているかと思うような美しい女の人の死体が入っているのだと信じた。
(中略)
母は、神々しいまでに美しかった。稔にはそれを表現する言葉も浮かばず、ただ美しい母を眺めていた。一度外出でもしたのか、きちんと化粧をしており、指の真っ赤なマニキュアが彼の目に焼きついた。
豊かな胸が、薄いセーターの下で静かな呼吸に合わせて上下している。視線を移すと、少しめくれあがったスカートの裾からは、つるりと白い滑らかな脚が見えている。
殺戮にいたる病/我孫子武丸 P276,277より
ここは稔にとっての母親の姿を表したシーン。
母親は美しく、それは神にも近く絶対無二な存在であることがわかるよね。
そしてその美しい姿とエジプトの棺の中にいるであろう女性の姿をリンクさせている。
稔にとって、愛していた理想の母親はこのシーンの母親のことなんだ。
本当は自分のことより父親が大事な母親なんてのは稔が愛した母親ではない。
母親に殴られたショックで稔は、自分が抱いていた感情を無意識に封じ込めてしまったものの、一度抱いた恋心はそう簡単にはなくならない。
本人でも忘れていた母親に対する愛を、理想の母親に似た被害者たちに接触することで思い出していく稔。
そしてその記憶を近づけるために、被害者たちは殺され犯されたんだ。
殺さなければならなかった理由は2つあると僕は思う。
1つはさっきの引用部分のように、理想の母親の姿がエジプトのお棺に入った死体とリンクしているということ。
もう1つはより記憶の中の理想の母親に近づけるために、生きている人間では違いが明らかなため死んでいたほうが都合が良いということだと思うんだ。
人とセックスするのではなく、記憶の中の母親と母親に似た身体のパーツを使って自慰行為をしていると言ったほうがしっくりくるかもしれない。
乳房や子宮を切り取ったあとの死体について何の興味も沸かないのはそのためだ。
しかし、切り取った身体はすぐに腐敗していまい、稔はその度に喪失感を味わう。
母親に似た人たちと関わっていくうちに少しずつ、自分がかつて母親を愛していたことを思い出していった稔は、最終局面で本当に自分が求めていたのは母親だったということに気づくんだ。
衝撃的な最後の一文
叙述トリックによって騙され続けてきた読者は、最後の最後に度肝を抜かれることになる。
「ああ、ああ、何てことなの!あなた!お義母さまに何てことを!」
殺戮にいたる病/我孫子武丸 P348
そう、稔は自分が本当に愛していたのは実の母親だと気づき、急いで帰って母を殺し、そして犯したのだった。
さて、本当に愛すべきは母だったと気づいた稔だけど、どうして殺す必要があったんだろうか。
これは僕の推測にすぎないけれど、これまでの女性と同じく、稔が愛していたのは過去の母であって、歳をとった今の母親ではないということだと思うんだ。
きっと稔はもうこの世のどこにも本当に愛していた母はいないのだとこのあと悟ることとなるだろう。
母親の喪失、父親の不在
幼い時に、母親から充分に愛情をもらえなかった子供はパーソナリティー障害になりやすい。
障害とまではいかなくとも、人格形成に大きな影響を与えることは間違いない。
そして稔の場合は父親もいなかった。形としての父親はいたけれど、父親は父親の役割を果たしていなかったし、暴力も受け、最愛の母親をも奪う存在だった。
愛というものを知らない稔は、人を本気で愛することもできず、身体だけ大人になっていった。
表面上は大人の稔だが、中身は全く成長できておらず、最初のターゲットと交わった時にも、これこそが本当の愛なんだ!と初めて恋愛をした少年のような感情が沸き起こる。
恐らく、結婚して子供がいるのも、一般的な家庭というものを模倣でもいいから作ろうと思ったからじゃないだろうか。
傍から見れば稔はとんでもない変態殺人鬼だけど、こうなってしまったのは幼少期の両親による影響なのだと思うとなかなか可哀想な人間だなと思わざるを得ない。
まとめ
小説はだいたいタイトルの回収がどこかにあるのだが、この本にはそれらしいところは見当たらない。
では「殺戮にいたる病」とは一体何なのだろうか。
これはさっき書いたように、両親の機能不全によって出来上がった子供のことではないだろうか。
この本が書かれたのは約30年前。その時よりも、こういった家庭は増えている気がするのは僕だけだろうか。
幼少期の両親の役割、大切さ、そういったものを考えさせられる内容だなと僕は感じたよ。
是非みんなも読んでみてね!!
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