ずっと昔から「普通」っていう言葉が嫌いだった。
普通じゃない、普通はこうする、普通ならこう思う、普通って何なん?
普通じゃないといけないの?
自分は普通じゃない、つまり異常なの?
普通ってそんなに大事なことなのか、若い時の僕には答えが出せなかった。
だけど最近、普通であることの大事さを知る出来事があった。
と言っても僕は全然普通じゃないし、昔のように普通に対する嫌悪感こそなくなったけど、未だに普通の人間でいることが正義なんて思ってない。
僕が言う、普通であることの大事さ、っていうのは、社会的側面から「普通」という「感覚」を持ち合わせているかどうか、っていうこと。
今日のお話は、普通の人間である必要はないし、自分を普通に変える必要ないけど、「普通」っていう感覚を持っていないといけないっていうお話だよ。
例えば、スーパーやデパートに買い物に行ったとする。
レジは混雑していて客が列を作って並んでいる。
そこに並んだんだけど、少し離れた売り場に呑気に世間話をしてる店員がいるのが見える。
(普通さ、こんなに混んでんだから手伝うとか手伝えないならせめて見えないとこで喋るとかしろよ・・・)
こう思うのって、自分が普通かどうかはさておき、普通っていう感覚が自分の中にあるってことなんだよね。
つまりこの店員二人は「普通の人」かどうかはわからないけど、「普通の感覚」がずれてるんだよね。
(客観的に自分を見られないとも言える)
別の例。
Bさん、私実は病気なの・・・
うそっ!!大丈夫なの?何の病気??
この会話の後、BさんはAさんとあまり仲良くないCさんにAさんが病気だということを喋る。
ちょっと!私が病気ってことCさんに話したでしょ!!
そうだけど、秘密って言われなかったからみんなに喋ってるんだと思った・・・
普通こういう話は黙っておくでしょ!!
何でも人に喋る人っているよね・・・。普通っていう感覚が鈍い人。
(こういう人に限って自分の話を勝手に人にされるとすぐ怒るんだよね)
この「普通」っていう感覚は社会に出るとすごく必要なんだと思う。
僕が言いたいのは、性格や人間性まで「普通の人」で在るっていうことじゃなくて、「普通」っていう感覚や知識を持ち合わせてるかどうかってこと。
上司の部下に対する「パワハラ」、友達同士のいじめ、子供にたいする接し方、ありとあらゆる人間との関わりで「普通」の感覚がなかったら、知らない間に事態が悪化して、取り返しのつかないことになることもある。
その感覚がある上で、あえてそうしないこともあるだろうし、逆に自分の意見とは違うけどあえて普通であろうとすることもある。
この「普通」っていう感覚を身につける方法はやっぱ人とのコミュニケーションにあると思う。
もし、「普通」の感覚がずれてる人がいたら教えてあげることもできる。
その時には、「普通」はこうなんだ!っていう言い方じゃなくて、あなただったらどう感じる(思う)のかをまず相手に問うことから始めたほうが良いと思う。
三角形の面積の求め方を「底辺×高さ」だと間違って覚えている人に、ただ、「底辺×高さ÷2」が正しいと教えるよりは、「底辺×高さだと、四角形の求め方と同じだと思わない?」ってワンクッションおいて、押し付けるんじゃなく一緒に考えるスタンスだと相手も話を聞き入れてくれる可能性が高いと思う。
社会の一部として生きていくには、「普通」の感覚はすごく大事だし必要なんだけど、別に自分が普通の人間として生きていかなくてもいいじゃんっていう話でした。
(結局普通の人間ってどんな人なんだろうね・・・)
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